波間の玻璃

感性を大切に生きたい

合理的を気取っている人は、何を信じて生きているのかー『神の亡霊 近代という物語』第2回 臓器移植と社会契約論

ごきげんよう、玻璃です。

大学構内の若葉の緑が目に染みます。

 

 

引き続き、『神の亡霊 近代という物語』の感想を書いていきます。

 

第1回↓

namima-no-glas.hatenablog.com

 

第2回↓

namima-no-glas.hatenablog.com

 

 

欧州の多くの国では、「推定同意の原則」すなわち、臓器提供拒否の意思を当人が生前に示さない限り臓器摘出に同意したとみなす考えが採用されています。

その推定同意の原則が法制化されている国では、拒否遺志がない限り遺族が反対しても臓器を取り出せることになります。

しかし、実際には遺族の了解を求める場合が多いのです。

なぜなら、脳死患者は外から見る限り眠っている人とほとんど見分けがつかず、死亡を頭で理解しても、実際に摘出作業が始まると遺族は気が動転してしまうものであるからです。

つまり、頭で理解する理屈と、心の感情は異なるものであるのです。

 

臓器を再利用するということは、遺体がかけがえのない人間から、単なるモノへと変質することが必要となります。

しかし、その変質には心理的な壁が大きく立ちはだかります。

その壁を取り払うために、時間を経て、またドナーと受容者を違う空間に置き臓器に空間の移動を行わせることが、大きな役割を果たすのです。

死は、理屈だけでは受け入れられないのです。

 

人間は、社会の論理と心の論理に縛られて生きるものです。

では、宗教や神話は謝った知識なのでしょうか。もし誤った信仰であるならば、なぜ近代合理主義の普及にもかかわらず消えることはないのでしょうか。

宗教・神話などは、科学に劣る単に誤った知識ではなく、独自のメカニズムを通して維持される生産物です。

宗教と科学は、合理性の程度によって区別されるものではありません。 

合理性とは、集団相互作用が産み出す間主観性の別名であるのです。

だからこそ、近代政治思想が行う、正しい社会秩序を理性的に構築しようという試みは、土台無理な話なのです。

宗教への依存を表向き禁じた近代ではありますが、実際は神の存在なしには社会はあり得ないのです。

 

 

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わら人形 迷信の究極?

 

 

章題となっている社会契約論というのは、文章中で言う「正しい社会秩序を理性的に構築しよう」とする社会のことを指しているのだろうか。

一読しただけでは、臓器移植と社会契約論がどうつながるのかがわかりづらかったのだが、臓器移植の例を通して示された「社会の論理と心の論理に縛られて生きる」人間としてのあり方から、非合理的な神なしでの社会は存在し得ない、という結論が導き出されているのだろう。

 

時代劇なんかで迷信に踊らされる人を見て、ばかだなぁなんて思っている現代人とて、多分色々なものに縛られているのではないか。

合理的、を何と解するかにもよるが、卑近な例で言えば、家を買うときや家具を置くときに風水を気にしてみたりすることがそうであるだろう。

また、人の感情を気にして行動することも、ある意味では非合理的ではないか。

合理性を追求するなら、自分がしたいと思うことを短期間で実現する必要があり、その上では周りの人のことなんて考慮する必要がないだろう。

そしてそれがもっと大きなスケールで潜在的になったものが、この本で言われる「神」の亡霊なのではないか。

 

「私は数字しか信じない」などと気取って言ってみたとしても、それはとんだ間違いなのだろう。

近代人は、非合理的な迷信や伝説を捨て、合理的と思われるデータなどを盾とし、それに全面的に依存しがちである。

しかし、それでは精神的に痩せ細っていくであろうし、何より人間として本質的に矛盾するのではないだろうか。